公開: 2019年8月30日
更新: 2019年8月xx日
1919年、孫文が中華革命党を組織替えし、中国国民党が結党されました。第1次世界大戦後のパリ講和会議によって、日本は、中国東部の山東省を支配する権益を敗戦国のドイツから引き継ぎました。これに反対して、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がりました。この反日運動の盛り上がりは、中国の若者達に共産主義思想への共感を増大させる結果になりました。この反日愛国の精神は、孫文の思想にも影響を与え、社会主義国ソ連との連携を受け入れ、労働者と農民が互いに助け合うと言う方針が確立しました。
この新しい方針に従って、孫文は従来のようなエリート層の人々による新中国の建設ではなく、ソ連の建設に貢献した赤軍を中心とした体制を模範に、国民革命軍を中心として、政党と国家が一体化した体制を築き上げようと考えました。このことから、中国に中国共産党が設立されたとき、中国国民党はそれを許容する立場をとり、反帝国主義のための統一戦線を形成すると言う方針を採択して、ソ連政府との連帯も表明しました。
孫文の死後、1925年に汪兆銘(おうちょうめい)を主席とした広東国民政府が樹立され、1926年から北伐(ほくばつ)と呼ばれる共産党への攻撃が始まりました。1927年には、後に国民党を率いて日本と戦うことになる蒋介石(しょうかいせき)が、クーデターを起こし、共産党との連携は崩壊し、汪兆銘の北伐によって蒋介石らは1928年に北京へ入場し、南京に蒋介石を主席とした国民党政府が成立しました。しかし、その後内部対立が激化し、武力抗争が続きました。
1932年、軍事力と富裕層の支持があった蒋介石のグループが主導権を握ることになりました。この頃、蒋介石は、抗日戦争よりも反共産主義を優先し、1930年から1934年まで、5回にわたり対共産党軍の掃討戦を試みました。共産党は、その根拠地を放棄して戦ったため、国民党軍は共産党を滅ぼすまでには至りませんでした。この頃、国民党軍はドイツから軍事顧問を招き、精鋭化を行いました。
1936年、抗日戦での共産党軍との連携に強く反対していた蒋介石が軟禁される事件が起こりました。この事件をきっかけに、蒋介石は共産党と連携して、対日戦争を展開する方針に変わったと言われています。1937年に日中戦争が始まり、国共合作と呼ばれる、国民党と共産党が連携して日本と戦う方針が決められました。